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安房国へわたる頼朝の身を隠した自然の窟

波の侵食によってできた海蝕洞(洞窟)。真鶴町の真鶴港近くと、湯河原町北西に連なる城山にあり、石橋山の戦いで敗れた源頼朝はこうした窟(いわや)に身を隠しながら真鶴岬に辿り着き、船で安房国(現在の千葉県)へ渡ったと伝えられています。
「しとど」の名は、追手が窟を捜索しようとした際に「シトト」と鳴く鳥が飛び出てきたため、奥に人影がないものとして立ち去ったという言い伝えが由来となっています。

真鶴町にある「鵐窟(しとどのいわや)」は、真鶴半島をつくる安山岩質の真鶴溶岩、湯河原町の「しとどの窟」は城山をつくる安山岩質の白糸川溶岩でできています。鵐窟は、頼朝の時代には奥行きが130mもあったといわれますが、徐々に波に削られ、幕末には幅3m、奥行き11mほどに。当時の窟は海に面していましたが、関東大震災による土地の隆起で海面より高い位置になりました。さらに第二次世界大戦時、三浦半島に海軍の飛行場をつくるため、多くの石が資材として切り出されました。
湯河原のしとどの窟には、土肥椙山観音像群と呼ばれる20以上の石仏が並び、厳かな雰囲気を醸し出しています。

じつは、真鶴に古くから残る「青木」「五味(ごみ)」「御守(おんもり)」という3つの名字は、頼朝が鵐窟に身を隠した際に木の枝で入り口を隠した者(青木)、食料を運んだ者(五味)、見張り役をした者(御守)にそれぞれ与えられたという伝承が残っています。

あえて頼朝を逃した梶原景時

『源平盛衰記』などによれば、景時は怪しげな窟を探索し、頼朝らが潜んでいることに気づきますが、「洞窟の中はコウモリばかりで誰もいない」と味方に告げ、兵を立ち去らせたと伝えられています。その後、景時は頼朝のもとで鶴岡若宮(鶴岡八幡宮)造営や囚人の監視などのほか、侍所所司という御家人の統制を行う重要ポストにまで就任します。

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基本情報

住所 神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴1042-4
HP http://www.town.manazuru.kanagawa.jp/soshiki/sangyoukankou/kanko/2187.html
駐車場 なし
トイレ なし
備考 JR「真鶴」駅より、ケープ真鶴行きバス「魚市場」下車

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