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熱海温泉の歴史

STORY

  • 491「獄死した的臣蚊島・穂瓮君の屍を伊豆の海に沈めたことによって、温泉が湧き出し、多くの魚介類が死んだ」と伝わる(『豆州熱海湯治道知辺・付録・伊豆国熱海温泉縁起』)
  • 699役君小角(えんのきみおづぬ)を伊豆嶋(伊豆大島)に流す(『続日本紀』)
    「役の行者が伊豆大島に流された折、湯濱で温泉に浴そうとして温底に霊験を見た」と伝わる(『走湯山縁起』)
  • 742「孝謙天皇の御代、海中の温泉で魚が死んだのを哀れみ、箱根の万巻上人が熱湯を陸地に移した」と伝わる(「湯前権現拝殿再興勧進之状」)
  • 794平安京に遷都
  • 939平将門の乱
  • 1016藤原道長が摂政となる
  • 1024正月、女流歌人相模が走湯権現に参詣、和歌百首を奉納、4月15日に返歌があり、再度百首奉納『走湯百首』
  • 105211世紀中期以降、平直方の子・「阿多美(見)(四郎)禅師」聖範、走湯山・阿多美郷に居住か
    Story 01
    熱海温泉のはじまり
平安
  • 1192源頼朝、征夷大将軍となる
  • 1193和田左衛門尉義盛、子息を引具して「伊豆安多美湯より下向し、早河湯本湯に詣でて三浦に返り」(妙本寺本『曽我物語』巻第5)
  • 1221承久の乱
  • 1232御成敗式目の制定
  • 1243忍性27歳の時に吉野金峯山執行覚如と伊豆山の湯屋で会う(『興正菩薩御教誡聴聞集』)
鎌倉
  • 1281元寇 - 弘安の役
  • 1282忍性、熱海地蔵堂の鐘を造る(「日本古鐘銘集成」)
  • 1284日興、日保への書状で「明年二月之末、3月のあはいに、あたみ湯治の次には…」とあたみ湯治に触れる(『興尊全集』)
  • 1293平禅門の乱
    室町時代にはこの時に熱海に構えていた館が崩壊し「平左衛門地獄」となったと伝わる(『空華日用工夫略集』)
  • 1317この頃、某があたみより蓮心房へ送った手紙に「召し湯」のことが書かれている(「金沢文庫文書」)
  • 1331後鳥羽天皇、山城国笠置山で挙兵
    日興、弟子日代に熱海湯地を譲る(日興譲状写)
  • 1333新田義貞、鎌倉を攻め落とす。鎌倉幕府滅亡
  • 1338このころ「熱海船」と呼ばれる船が塩や酢などを運送(『金沢文庫文書』)。足利尊氏、征夷大将軍に補任
  • 1374五山文学の代表者としても知られる禅僧・義堂周信(ぎどうしゅうしん)、湯医のため熱海に往き、九峰信虔(きゅうほうしんけん)と温泉寺(広済接待庵)で会う(『空華日用工夫略集』)
    義堂周信、悦巖智誾らと温泉(熱海)に赴く(『空華集』)
  • 1392南北朝合一
南北朝時代
  • 1467応仁の乱
  • 1504今川氏親が熱海で湯治
  • 1521熱海郷湯瓦原村に湯宮(湯前神社)造立(『豆州志稿』『今井家手控』)
  • 1527連歌師の宗長(そうちょう)、このころ熱海で湯治(『宗長手記(そうちょうしゅき)』)
  • 153210月、猿楽師・観世長俊(かんぜながとし)、熱海湯治の時に謡曲「江の嶋」を作る(『江ノ嶋奥書』)
  • 1536公卿/歌人・冷泉為和(れいぜいためかず)、小田原から帰る今川氏輝らと「熱海湯当座」において和歌を詠む(『為和集』)
  • 1541北条氏綱、法度制定「走湯山湯へ、自国他国の人、貴賤をいわず、湯治すべからざるの事」(『伊豆順行記』)
  • 1560桶狭間の戦い
室町時代
  • 1580足利義氏、三伯昌伊に熱海の湯治から帰参するよう促す(『喜連川文書』)
  • 1582本能寺の変
  • 1590千利休が古田織部と熱海へ湯治に訪れる(『千利休書状』)
  • 1593関白豊臣秀次が熱海で湯治(『言経卿記』)
  • 1597慶長の役。徳川家康が熱海で湯治したと伝わる
  • 1600関ヶ原の戦い
  • 1603徳川家康が征夷大将軍に任じられる
戦国
安土桃山
時代
  • 1604徳川家康が義直、頼宣と熱海に七日間湯治
  • 1640沢庵宗彭(たくあんそうおう)、走湯山に滞在。後につくった謡曲『熱海』の中で大湯の間歇泉を描写
  • 1662四代将軍家綱のとき、将軍御用の御汲湯が始まる
  • 1707宝永地震、富士山噴火(宝永山ができる)
  • 1732享保の大飢饉
  • 1787寛政の改革。熱海名産の熱海雁皮紙(がんぴし)の製造が始まる。
  • 1832山東京山編『熱海温泉図彙』刊行。同年、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)『金草鞋』にも熱海が描かれる
  • 1853ペリーが浦賀に来航
  • 1867大政奉還
    Story 02
    徳川将軍と熱海温泉
江戸時代

Story 01

熱海温泉のはじまり

「あたみ」の語源は明らかではありませんが、10世紀の辞書である『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に「直美郷」とあり、古くは「直美」や「阿多美」、「安多美」などの漢字が用いられたといわれています。

鎌倉末期に成立した『曾我物語』には、1193年(建久4年)4月中旬に和田義盛の一行が「伊豆安多美湯」を訪れたという表記があります。「湯」という言葉が用いられていることから、当時はすでに温泉として利用できる状態にあったのかもしれません。ほぼ同時期の『吾妻鏡』には、1213年(建保元年)に北条泰時が「伊豆国阿多美郷」の地頭職を走湯権現(走湯山)に寄進したと記されています。
『熱海温泉誌』によると、「熱海」の表記が確認できる最古の資料は1297年(永仁5年)のもの。鎌倉幕府の執権・北条貞時が走湯山に宛てた文書に「走湯山坊地ならびに熱海郷」という記述が残されています。

じつは鎌倉以前の熱海については、古くから信仰の対象となっていた走湯山(そうとうさん/現在の伊豆山地区)のこと以外、ほとんどわかっていません。江戸時代に入ってからは、1667年(寛文7年丁羊)の成立といわれる『豆州(ずしゅう)賀茂郡熱海郷湯前権現拝殿再興勧進之上』や、1832年(天保3年)に戯作者・山東京山が記した『熱海温泉図彙(ずい)』などを通じて紹介され、そこには主に2つのエピソードが記されています。

①海中から熱湯が湧き出ているため魚類が棲みつかず、里の人々が困り果てていた。
②奈良時代半ばに箱根権現の万巻(まんがん)上人が訪れ、法力によって泉源を陸に移したことで温泉を利用できるようになった。

これらの伝承は、泉脈の守り神である湯前(ゆぜん)神社の開基や、江戸時代に本湯(もとゆ)や大湯と呼ばれた主泉源の開湯にかかわるものであり、さらに中心泉源の移動や温泉湧出現象の変化を示唆している可能性もあるといわれます。

関連スポット
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湯前神社
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伊豆山神社
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走り湯
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徳川将軍と熱海温泉

争いが続いた乱世から天下泰平の世となった江戸時代。将軍や大名をはじめ武士から農民・職人・商人などの庶民にいたるまで、温泉で病気を治す「湯治」が全国的に盛んになりました。江戸から近い熱海温泉にも多くの大名が湯治に訪れたといわれています。
なかでも熱海の温泉を愛した将軍として名高いのが、徳川幕府初代将軍・徳川家康。関が原の合戦前には熱海に入湯し、温泉のパワーをもらって天下統一を成し遂げたという伝承もあるほど。今井家に受け継がれる『熱海温泉由来記』には、家康が1597年(慶長2年)に名を伏せて逗留し、熱海の湯で疲れを癒したとも記されています。徳川幕府の公式記録によれば、1604年(慶長9年)3月に京都へ向けて江戸城を発った家康は息子の五郎太丸(のちの義直・初代尾張藩主)と長福丸(のちの頼宣・初代紀州藩主)を伴い、途中の熱海温泉で7日間の湯浴み逗留をしています。家康は熱海温泉の効能をいたく気に入り、病気がちだった岩国藩初代藩主・吉川広家へのお見舞いとして、同年7月には熱海の温泉5桶を京都の伏見まで送り届けました。その後、3代将軍家光も熱海での湯治を望み、現在の熱海市役所付近に熱海御殿を造営させています。

江戸城まで熱海の温泉を運ばせた「御汲湯(おくみゆ)」の始まりは、4代将軍家綱の時代。熱海村の名主・今井半太夫が残した『熱海名主代々手控抜書』の記録によると、寛文年間(1661~73年)には「御汲湯」と称して大湯の温泉を江戸城まで運び、将軍家に献上していたようです。御汲湯奉行による厳重な監督のもとで大湯を汲み出す御用を勤めたのは、大湯から源泉を引いて営業する湯戸(温泉宿)の主人。紋付き袴を着用した湯戸の主人が、覆面と長柄杓を使って真新しい檜の樽に大湯を入れ、昼夜通して村から村へとリレー形式で約28里(112km)の道を運ばれていきました。その様子は「熱海よいとこ 日の丸立てて 御本丸へとお湯がゆく」とうたわれ、15時間ほどかけて江戸城へ着く頃には、ちょうどいい湯加減になったといいます。
8代将軍吉宗の頃には1726年(享保11年)からの9年間で3643樽が運ばれ、輸送方法も網代からの押送り船による海上輸送へと変化。10代将軍家治の時代にも、1784~85年(天明4~5年)の2年間に229樽もの湯が江戸城まで運ばれました。享保期には幕府役人による直接管理から地元の輸送業者による委託運搬となり、明治以降も神奈川や川越まで運ばれた記録が残っています。

そして江戸時代から明治にかけて、相撲の番付にならった「温泉番付」が各地でつくられるようになります。公的なものではありませんが、各温泉の効能などが書かれていることから、温泉の選択順位を決める重要な要素であったことが推測できます。最高位である大関は、東の草津、西の有馬が不動の地位を占めていました。ここで注目すべきポイントは、「伊豆熱海湯」(熱海温泉)が東西の湯に分けられることなく行司であるということ。番付の格式を保つため、行事や勧進元には誰もが認める名湯が表記されなければなりません。徳川家康が愛し、御汲湯も行ってきた熱海温泉は、その条件を十分に備えた温泉だったのです。
※「御用汲湯の想像図」(古屋旅館蔵)

御用汲湯の想像図
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湯前神社
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大湯間歇泉(熱海七湯)
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●出典
『市制施行80周年記念 熱海温泉誌』
『温泉万歳』
熱海市公式ウェブサイト