走湯山般若院 伊豆山エリア
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時代の波にあおられながら復興を遂げた名刹
真言宗の古刹で、山号は「走湯山(そうとうさん)」。その始まりは、僧の賢安が観音堂を創建した836年(承和3年)と伝えられ、真言宗伊豆派(当時)の本山として関東一円に大きな勢力を誇りました。鎌倉時代は密厳院と呼ばれ、源頼朝はこの場所で平家討伐の願をかけ、別当を務めていた覚淵に師事。一時はここで妻の政子と暮らしたともいわれています。
しかし1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた際、走湯権現(伊豆山神社)は北条側に加わったため加藤清正によって焼き打ちされ、3000人の僧兵や住民が命を落としたといわれています。その後、徳川家康が高野山から快運という僧を招いて別当職に任命し、「走湯山般若院」の称号を与えて復興。これにより、江戸時代には12の僧坊と7つの修験坊を有するほどの繁栄をみせました。
走湯権現の境内(現在の伊豆山小学校のあたり)にあった般若院ですが、1868年(明治元年)の神仏分離令により現在の場所に分離されました。本堂の向かい側には弘法大師(空海)の像が立ち、境内奥の大師堂には弘法大師自ら刻んだといわれる「大師像」(重要文化財)が安置されています。また、本堂に安置されている「走湯権現立像」(重要文化財)は鎌倉時代の作とされ、立烏帽子をかぶって袈裟を着た姿で神仏習合のさまを表す珍しい彫像として知られます。