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頼朝旗揚げの軍議が行われた古刹

もとは弘法大師(空海)が修験道場として開いた長久寺と呼ばれる真言宗の寺院でしたが、山火事によって伽藍を消失し、1190年(建久元年)に源頼朝の寄進によって再興(約650年前に曹洞宗に改宗)。その際、頼朝は自身が旗揚げした当時の姿に再建するよう厳命したといいます。寺院の名も源氏の名から一字を入れた「寶船山(ほうせんざん) 高源寺」に改められ、そこには「不遇な時代の自分を見捨てず支えたくれた人たちがいる船山こそが宝である」という頼朝の思いが込められています。
というのも、伊豆一円の土豪(小豪族)たちは当初、平家の威力を恐れて頼朝に近づきませんでしたが、頼朝の配流とともに現在の函南町大竹に移り住んだ頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)と安達盛長が熱心に世話をする姿に心を動かされ、秘密裏に新鮮や収穫物や珍しい話などを持って訪れるようになりました。頼朝は、征夷大将軍になってもなお、その恩を忘れずにいたのでしょう。参道沿いには、比企一家と安達盛長を伴い頼朝を護ったと伝えられる比企尼の宝筐印塔(供養塔)が建てられています。

この船山の深くに位置する古刹は、比企尼が、頼朝と文覚(もんがく)上人とを引き合わせた密談の場所であり、頼朝が石橋山の戦いに挑む際に軍勢が揃った旗揚げの地であるとも伝えられています。また、頼朝の側室となった比企家の女が匿われたとも伝えらえます。側室は頼朝の子を宿し、頼朝の旗揚げの半月前に安達盛長の生地である摂津の住吉大社へ参詣。この参詣は、京阪神や四国の同志に「頼朝旗揚げの決意近し」と知らせるためであり、出産した子はのちの島津忠久だといわれます。側室はその美貌と才智を見初められ、後白河法皇の側室・丹後局(たんごのつぼね)として頼朝と法皇の交歓に務めたと伝わっています。

宝物殿や本堂内の欄干には、源氏の家紋である「笹りんどう」が刻まれ、山門の蟇股(かえるまた)には時の天皇・上皇の発願により創建された勅願寺だけに許される「菊の御紋」の浮彫を見ることができます。苔むした石畳や歴史を感じさせる大木の並木が印象的な境内は、凛とした空気に満ち、心穏やかな時間を過ごせます。

源氏再興への密議の場

乳母であった比企尼(ひきのあま)の計らいにより、頼朝はこの場所で同じく伊豆に配流されていた文覚上人と源氏再興の密議を重ねたといわれます。高源寺本堂の裏手には隠れ天井の部屋があり、これは平家打倒の軍議を行なっている最中に不審な気配が近づいてきたら縁の下から裏山伝いに逃れられるよう工夫されたものを復元しています。

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基本情報

住所 静岡県田方郡函南町桑原1265
HP なし
駐車場 20 台ほどあり
トイレ あり
備考 ・最寄駅はJR函南駅。
・中型(29人乗り)の観光バスまでは通行可能(要問い合わせ)。
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