著名人に愛された熱海
STORY
- 194711月、山本有三が「玉渓」に滞在
- 19483月15日、山本有三の滞在中に志賀直哉と谷崎潤一郎が来館し、3人で文芸対談を行う
3月18日、太宰治が「大鳳」に宿泊。この前後の3月7日〜31日は起雲閣別館に滞在し、『人間失格』を執筆 - 1951舟橋聖一がこの頃からたびたび「孔雀」「大鳳」滞在し、『芸者小夏』を執筆
Story 01
起雲閣を愛した文豪たち
内田信也と根津嘉一郎という2人の実業家が別邸として所有したのち、1947年(昭和22年)10月に旅館として生まれ変わった起雲閣。緑豊かな庭園、日本家屋の美しさをとどめる本館と離れ、日本や中国、ヨーロッパなどの装飾や様式を融合させた洋館など、贅を尽くした空間は多くの文豪を魅了してきました。
1947年(昭和22年)11月、開業まもない起雲閣に滞在した山本有三は、翌年3月15日には志賀直哉、谷崎潤一郎とともに「玉渓」で文芸対談を行いました。館内には、この時の3人の姿を収めた貴重な写真が飾られています。また、山本は起雲閣滞在のたびに愛用の駒を持参し、支配人と将棋をさしたというエピソードも。
同年3月18日には太宰治が山崎富栄を伴い「大鳳」に宿泊。太宰はその前後にも林ガ丘町にあった起雲閣別館(1988年に取り壊し)に滞在し、そこで『人間失格』を執筆しています。同作のテレビ映画の撮影も起雲閣別館で行われ、1987年(昭和62年)と1988年(昭和63年)には起雲閣で故人を偲ぶ「熱海桜桃忌」が執り行われています。
舟橋聖一は1951年(昭和26年)頃から「孔雀」「大鳳」に滞在するようになり、『芸者小夏』や『雪夫人絵図』を執筆したといわれます。『雪夫人絵図』が映画化された際は、自ら溝口健二監督に「ローマ風浴室」での撮影を提案。起雲閣の鯛料理の美味しさやローマ風浴室の豪華さについても著述に書き記しました。
その後も1958年(昭和33年)6月4日に三島由紀夫が新婚旅行で宿泊。1959年(昭和34年)には武田泰淳が「孔雀」に滞在し、『貴族の階段』を執筆したと伝えられます。作品のイメージには起雲閣別館の様子を用いたという説も。
起雲閣の常設展示では、この場所を愛した文豪にまつわる逸話のほか、直筆原稿などの貴重な資料にも触れることができます。
Story 02
坪内逍遙と熱海の文化
熱海と縁の深い文豪といえば、晩年のほとんどを自ら設計した双柿舎で暮らした坪内逍遥。「シェイクスピア全集」全40巻の翻訳作業も、その多くが熱海で行われたといいます。
そして逍遥は、熱海の文化を向上させた立役者としても知られています。有志とともに自身の蔵書を含む5657冊もの本を集めて熱海町(当時)に寄贈し、1915年(大正4年)11月10日に町立熱海図書館(現在の熱海市立図書館)が設立されました。寄贈された蔵書の中には、逍遙が集めた貴重な郷土資料も。図書館設立に貢献したその姿は、熱海市立図書館の設立100周年記念キャラクター「坪さん」として広く人々に親しまれています。
また、日々の暮らしを通じて近所の住人や旅館の主人、芸妓衆とも交流を深めていた逍遙は、熱海花柳界の発展を願う長唄の新曲「熱海の栄」を書き下ろし、自ら振り付けを考案して指導にあたりました。さらに、熱海の伝説や歴史を題材に脚本を執筆したオペラのような実験的作品「熱海ページェント」を発表。その劇中で使う仮面の下絵を収録した『熱海ページェント事代主仮面絵』は、熱海市立図書館に収蔵されています。1923年(大正12年)には、時の町長・岸衛からの依頼を受けて「熱海町歌」を作詞。「真冬を知らざる 常春熱海」から始まるこの歌は、「熱海市歌」として現在まで歌い継がれています。
1935年(昭和10年)2月28日に満75歳9カ月でこの世を去った逍遥の菩提寺は、双柿舎からほど近い海蔵寺。庭石のような佇まいの青みがかった伊予石に法名の「雙柹院始終逍遥居士」が刻まれ、海を見下ろす高台でセン夫人とともに眠っています。
(写真/ 早稲田大学演劇博物館所蔵:F73-00223、F68-00002)