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頼朝・政子ゆかりの地

STORY

  • 1098源氏の隆盛
  • 1159平治の乱 源義朝が敗れる。頼朝、伊豆国蛭ヶ小島に流される
  • 1167平清盛 太政大臣になる
  • 1180似仁王の令旨 頼朝、侍所を設置
  • 1184頼朝、公文所・問注所を設置
  • 1185平氏滅亡 頼朝、諸国の守護・地頭任命権を獲得
平安
  • 1192源頼朝が征夷大将軍に就任する
  • 11991月、源頼朝が落馬で亡くなり、源頼家が家督を継承する
  • 1203源実朝が将軍に就任する/北条時政が執権に就任する
  • 1204源頼家が伊豆の修行寺で殺害される
  • 1205牧氏の変、北条義時が執権に就任する
  • 1219源実朝が頼家の子である公暁(くぎょう)に暗殺される
  • 12215月、承久の乱が勃発(幕府が乱に勝利)
  • 1224北条泰時が執権に就任する
    Story 01
    頼朝と⾛湯権現
    Story 02
    源頼朝と北条政⼦
    Story 03
    ⼆所詣
    Story 04
    源実朝が歌に詠んだ熱海
    Story 05
    八重姫と源頼朝の悲恋
    Story 06
    石橋山の合戦で大敗した頼朝
    Story 07
    源氏の血筋が絶え、北条氏の時代へ
鎌倉

Story 01

頼朝と⾛湯権現

火牟須比命(ほむすびのみこと)・天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)・拷幡千千姫尊(たくはたちぢひめのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を御祭神とする走湯(そうとう)権現(伊豆山神社)は、鎌倉時代以前から多くの僧兵を有し、伊豆や相模をはじめ周辺国に権威を誇ったと伝えられています。

1159年(平治元年)に起きた平治の乱で源義朝が破れると、嫡子の頼朝は平清盛の継母による助命嘆願を受けて死罪を免れ、伊豆に流罪となります。流罪となった1160年(永暦元年)2月当時の頼朝は14歳。1180年(治承4年)8月に34歳で旗挙げするまでの20年間を伊豆の地で過ごしました。その後しばらくして、京都の東寺で真言宗を学び走湯権現に入った僧侶の覚淵(かくえん)を師と仰ぎ、彼のもとで学ぶようになります。覚淵は、のちに頼朝と挙兵する加藤景簾(かげかど)の兄弟でもありました

頼朝は源氏再興を祈願して法華経を1000巻読経する誓いを立てていましたが、1180年4月に以仁王(もちひとおう)が平家討伐の命を出したことで事態が急変。同年7月に覚淵を北条時政の館に招いて読経800巻での出陣を相談すると、覚淵は承諾して頼朝の背中を押します。そして8月に頼朝が旗揚げを敢行して韮山の山木兼隆を討ち取るまでの間、走湯権現では勝利の祈祷が行われ、10月に妻の政子が娘の大姫(おおひめ)とともに鎌倉入りするまで二人を守り続けたのです。また、1182年(寿永元年)には、政子の安産祈祷も行われました。

その恩に報いるため、頼朝は走湯権現にたびたび所領を寄進したり、公事(税)を免除したりと経済的に支える基盤づくりを行いました。頼朝の帰依を受けた覚淵は、走湯権現の中心となる密厳院(みつごんいん)東明寺の初代院主(別当)となります。鎌倉の鶴岡八幡宮の別当や、数々の法会に必要な舞童や稚児も走湯権現から招かれるなど、その活躍の場も広がっていきました。

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日金山東光寺
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Story 02

源頼朝と北条政子

「鎌倉の尼将軍」と名を馳せた北条政子は、伊豆韮山の小豪族の娘。1157年(保元2年)に伊豆国(現在の伊豆の国市)で北条時政の長女として生まれました。政子と頼朝の出会いは、時政が伊豆へ流罪となった頼朝の監視役に任じられていたことや、伊東祐親に命を狙われた頼朝が時政のもとへ逃げ込んだことがきっかけだといわれています。
『曾我物語』によれば、頼朝が政子のもとへ通い始めたのは政子が数えで20歳になる1176年(安元2年)の3月頃。惹かれ合う二人は周囲の目を逃れ、頼朝が信仰を寄せていた走湯(そうとう)権現(伊豆山神社)で逢瀬を重ねたと伝えられています。伊豆山(いずさん)神社の御神木である梛(なぎ)の葉に政子が二人の名を刻み、手鏡の下に忍ばせて縁結びの祈願をしていたという言い伝えも。

『源平盛衰記』によれば、恋仲となった二人は結ばれることを望みますが、それを知った時政は大反対。平家全盛の時代に源氏である頼朝との縁組は北条家にとって命取りであり、前途は絶望的と考えた時政は、平家一族出身の伊豆国目代(代官)・山木兼隆との縁談をまとめてしまいます。
そして迎えた婚礼の夜。政子はすべてを捨てる覚悟で宴席を抜け出し、雨降るなか七里(約30km)の夜道を駆け抜けて日金山(ひがねさん)を越え、頼朝のいる伊豆山へ逃れて足川(あしかわ)の地に身を潜めます。走湯権現の僧・覚淵(かくえん)のもとにいた頼朝は部下からその知らせを受け、逢初橋(あいぞめばし)で対面したと伝えられています。一般的には、国道135号線沿いにかかる朱色の橋を逢初橋と呼んでいますが、本来の場所は伊豆山岸谷(きだに)地区にある石造りの橋だといわれています(どちらも2021年7月の土石流災害により破損)。

また、熱海の多賀(たが)地区にある宝林山(ほうりんざん)自香院(じこういん)(海福寺)にも、頼朝と政子が人目を忍んで会い、語らったという伝承が残されています。

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Story 03

二所詣

「二所」とは、源頼朝と縁の深い走湯(そうとう)権現(伊豆山神社)と箱根権現(箱根神社)のこと。どちらも旗揚げ直後の頼朝と政子の苦境に手を差し伸べたことから、頼朝が厚く崇敬したことで知られています。この二所に加えて、頼朝が源氏再興の旗揚げの際に必勝祈願した三島社(三嶋大社)を含む3カ所に参詣することを「二所詣(にしょもうで)」と呼びました。

頼朝が初めて二所詣を行ったのは1188年(文治4年)。前年の暮れに同行する御家人を選ぶと、神事の前に肉食を慎み、水欲で心身を清める「潔斎(けっさい)」を命じます。出発の4日ほど前から頼朝も潔斎を行い、源氏一門や御家人ら300騎余りを率いて1月20日に鎌倉を発つと相模湾岸を陸路で進み、途中の相模川には相模湖区の武将・三浦義澄によって臨時の浮橋がつくられました。走湯権現、三島社、箱根権現に参詣して再び相模湾沿いを戻り、出発から6日後には鎌倉へ帰り着きました。
1189年(文治5年)に奥州征討を行った後、1190年(建久元年)の二所詣では箱根権現、三島社、走湯権現という行程に変更されましたが、『吾妻鏡(あずまかがみ)』によれば頼朝が敗戦した石橋山合戦の現場に立ち寄ることを避けるためとされています。

鎌倉幕府の初代将軍となった源頼朝の参詣以降、二所詣は幕府の公式行事となり、その慣習は1327年(嘉暦2年)まで続けられたといいます。記録によれば頼朝は4回、政子は2回の二所詣を行い、もっとも熱心だった3代将軍源実朝は8回も詣でたと『吾妻鏡』に記されています。

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Story 04

源実朝が歌に詠んだ熱海

1203年(建仁3年)9月、兄・頼家の失脚により源実朝はわずか12歳で征夷大将軍となりました。その翌年には後鳥羽上皇の従兄妹である坊門信子(ぼうもんのぶこ)と結婚。祖父にあたる執権の北条時政や叔父の北条義時らに補佐されながら、武士として初めて右大臣に任じられています。鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の際に頼家の子・公暁によって命を奪われ、28年の短い生涯を終えました。

そんな実朝は生前、和歌に親しみ歌人としても名を馳せました。和歌の大家として知られる藤原定家に師事し、定家から贈られた『万葉集』や父・頼朝の歌が収められている『新古今和歌集』などに触れながら造詣を深めて92首が勅撰和歌集に入集されているほか、鎌倉右大臣として小倉百人一首にも選ばました。実朝は短い生涯の中で多くの歌を残し、そのうち663首は22歳のときにまとめた家集『金槐和歌集』に収められていますが、そこには、熱海にまつわる歌も。

「箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」
これは、走湯(そうとう)権現(伊豆山神社)と箱根権現(箱根神社)、そして三島社(三嶋大社)を参詣する二所詣で箱根の山々を越えてきた実朝が、眼下に広がる伊豆の海を見た感動を沖の小島(初島 はつしま)に寄せて詠んだもので、万葉集の秀歌とされています。この歌は、十国峠の山頂と初島公園に歌碑が建立されています。

また、信仰心の厚かった実朝は走湯権現や走り湯も歌に詠みました。おおらかな調べの歌からは、実朝の人柄の一端が偲ばれます。
「走る湯の 神とはむべぞ 言いひけらし 速き験(しるし)の あればなりけり」
「わたつうみの 中に向かひて いづる湯の 伊豆のお山と むべも言ひけり」
「伊豆の国 山の南に 出づる湯の 速きは神の 験なりけり」
「千早振(ちはやぶる) 伊豆お山の 玉椿 八百万代(やおよろず)も 色はかわらじ」

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Story 05

八重姫と源頼朝の悲恋

源頼朝が少年期からの20年間を過ごした伊豆半島には、頼朝にまつわるさまざまな伝承が残されています。そのひとつが、八重姫との悲しい恋の物語。伊豆国の豪族・伊東祐親(すけちか)の娘として生まれた八重姫は、一時、伊東の北にある小御所に身を寄せていた流人の源頼朝と、おとなしの森(現在の音無神社)で逢瀬を重ねました。ほどなくして祐親が京都の内裏や院御所の警護を行う大番役(おおばんやく)として故郷を離れると、八重姫は頼朝との間に千鶴丸(せんつるまる)という子を授かります。

しかし、当時は平氏全盛の時代。京都から戻った祐親は、平氏の怒りに触れることを避けるため二人の中を引き裂き、千鶴丸は川に沈めてその命を奪ってしまいました。頼朝も命を狙われますが、頼朝に仕えた八重姫の兄・祐清(すけきよ)がいち早く身の危険を知らせたことで難を逃れます。その後、頼朝は祐清の烏帽子親(仮親)であった北条時政の館に身を寄せることに。そこで時政の娘・政子と出会い、北条の地で暮らすようになります。

頼朝が祐親に命を狙われた際に逃げたルートを現在の地図でたどってみると、伊東から船で上陸した網代(あじろ)から、乾いた喉を潤したと伝えられる「頼朝の一杯水」までは徒歩で約2時間。その足で訪れ、成功開運を祈願したという今宮神社までは40分ほど。さらに今宮神社から頼朝が崇敬を寄せた走湯権現(現在の伊豆山神社)までは徒歩で1時間ほどかかります。その走湯権現から北条時政邸までは徒歩で約5時間もの道のりですから、現代では想像できないほどの時間をかけて、命からがら逃げ延びたことがわかります。

ちなみに、頼朝が暮らしていたといわれる伊豆の国市の蛭ヶ島から北条邸までは徒歩でわずか20分の距離! 頼朝と北条氏は、もともと近所に暮らしていたようです。

地元に残る伝承によれば、八重姫は頼朝のことが忘れられず、家を抜け出して北条邸へ向かうも頼朝が政子と結ばれていることを知り、悲しみのあまり「眞珠ヶ淵(しんじゅがふち)」に身を投げたといわれます。一方で、伊東祐親が失意の娘を「江間次郎(小次郎とする説もあり)」に嫁がせたという言い伝えも。しかも、江間の住まいは狩野川(かのがわ)を挟んで北条家の館と目と鼻の先。いずれにしても、むごい仕打ちといえます。合戦や政治的な争いが続いた鎌倉時代には、八重姫のように悲しい人生を送った女性も少なくないはずです。

※各地に言い伝えが残っているものの、八重姫についての史料はほとんど残っておらず、伝承上の人物であると考えられています。

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Story 06

石橋山の合戦で大敗した頼朝

平家が栄華を極める一方、平清盛の横暴な振る舞いに対して反平家の機運が芽生えつつありました。1180年(治承4年)、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が平家追討を命じる令旨を発令。しかし以仁王は平家によって討たれ、平家は令旨を受けた源氏の追討を決定。源頼朝にも危険が迫ります。
伝承によれば、頼朝は走湯(そうとう)権現の僧侶・覚淵(かくえん)を北条氏の館に招き、伊豆での挙兵を相談。師と仰ぐ覚淵に背中を押されて挙兵を決意した頼朝は、わずかな軍勢で伊豆国目代の山木兼隆を討ち取りました。その頃、妻の政子と娘の大姫は覚淵のもとに身を寄せたと伝えられています。

初戦で勝利を収めた頼朝軍は高源寺(こうげんじ)で軍勢を揃え、相模国の三浦氏と合流するため西相模へと向かい、相模国の土肥郷から北上して石橋山に陣を敷いたとされます。この時の頼朝軍は、北条時政・宗時(むねとき)・義時、安達盛長、狩野茂光(もちみつ)、土肥実平(どいさねひら)以下、300騎ほど。そこに立ちはだかったのが、平家から源氏追討を命じられた大庭景親(おおばかげちか)の軍勢。頼朝打倒の呼びかけに応じたのは、俣野景久(またのかげひさ)、河村義秀、海老名季貞(すえさだ)、曽我祐信(すけのぶ)、毛利景行、熊谷直実(なおざね)、梶原景時らおよそ3000騎。しかも、頼朝軍の背後からは伊東祐親の軍勢300騎が迫り、敵軍に挟まれてしまいました。

頼朝軍は奮闘するも、圧倒的な兵力の差を前に敗走。『吾妻鏡』によれば、頼朝らが石橋山から椙山(すぎやま)の地へ逃れるさなか、頼朝方に馳せ参じるつもりが心ならずも景親軍となった飯田家義(いえよし)が自身の軍勢6騎を景親と戦わせ、頼朝を逃したと伝えられています。その後、この地を本拠地とする土肥実平の提案により一同は分散。頼朝は実平の導きにより、海に面した鵐窟(しとどのいわや)と呼ばれる洞窟に身を隠しながら真鶴岬へ辿り着き、岩海岸から船で安房国(千葉県南部)へ渡ったといわれます。この時、覚淵の庇護のもと秋戸郷(あきとごう)に身を寄せていた政子に、実平の子を使者として送ったという伝承も。
無事に安房国へ上陸した頼朝は、三浦一族や北条時政・義時らと合流。ここから、鎌倉幕府設立へといたる逆転劇が幕を開けます。

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Story 07

源氏の血筋が絶え、北条氏の時代へ

「此の里に 悲しきものの二つあり 範頼の墓と頼家の墓と」
これは、歌人の正岡子規が修善寺を訪れた際に詠んだ歌。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟・範頼(のりより)と、頼朝の嫡男に生まれた頼家(よりいえ)は、ともに修善寺の地で非業の最期を遂げています。

源範頼は源義朝の第6子で、頼朝と木曽(源)義仲が対立した際は異母弟の義経とともに義仲を討ち、続く一ノ谷の戦いで平家を破った武功により三河守(みかわのかみ)に任じられます。その後、義経との仲が険悪になった頼朝から義経討伐を命じられますが、範頼はこれを断り、頼朝から疑いの目を向けられてしまいます。
そして1193年(建久4年)、曽我兄弟仇討で頼朝討死(誤報)が伝えられ、悲嘆に暮れる政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたことが謀反の疑いを招くことに。言葉を尽くして身の潔白を訴えた範頼でしたが、誤解が解けぬまま修禅寺への幽閉が決定。のちに梶原景時の急襲を受け、防戦の末に日枝神社下の信巧院(しんごういん)で自刃したと伝えられています。

一方の頼家は、1182年(寿永元年)に征夷大将軍となった源頼朝と北条政子の嫡男として生まれました。父の急逝により18歳で家督を継ぐと、鎌倉幕府の2代将軍として清新の意気に燃えて果断な政治を行おうとしますが、御家人たちの反発から宿老13人による合議制度を強いられます。政治的実権を取り上げられた頼家は、若い側近たちと狩猟や蹴鞠(けまり)に明け暮れたという説も。
やがて側室の若狭局や、その一族である比企家と組んで反北条の姿勢を強めるも、病に倒れている間に将軍職を解かれ、在位6年で修禅寺に幽閉されてしまいます。伝承によれば、1204年(元久元年)、祖父である北条時政の策謀により入浴中に暗殺されたといわれます。23歳という若さで散ったその生涯は動乱の世を象徴する悲劇であり、明治時代には岡本綺堂の戯曲『修禅寺物語』を生むきっかけともなりました。

頼家亡きあと家督を継承し、鎌倉将軍の座に就いた弟の源実朝は、政争から逃れるように和歌に傾倒。「箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」など熱海にまつわる歌を含め、短い生涯ながら多くの歌を残しています。実朝は、1219年(建保7年)に頼家の子・公暁に暗殺され、28年の生涯を終えました。事件ののちに公暁も討たれ、源氏将軍家の血筋は断絶。その後、執権を務める北条氏が多くの政争を経て、その地位を不動のものとしていきます。

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●出典
『市制施行60周年記念 熱海歴史年表』
『市制施行80周年記念 熱海温泉誌』
熱海市公式ウェブサイト
伊豆の国市公式ウェブサイト